久保寺について

成り立ちと現在

久保寺は、南箕輪の地で大覚禅師により開山、伊那源氏の支流、諏訪大和守甫良により創建されました。

本尊に薬師如来、脇仏に毘沙門天・不動明王を安置していたため、山号を毘沙門天の別称からとり「多聞山」、寺号は地名からとって「久保庵」としました。

応仁の乱以降、全国的戦乱の時代になると、兵火にあい次第に衰えていきました。

その後、創建から約二八〇年後の弘治二(1556)年、諏訪大和守甫良の十八世の孫にあたる諏訪久保は、鎌倉建長寺塔頭 玉雲院第七世覚源恵了禅師を迎え中興開山し、元禄五(1692)年には妙心寺派に属し、寺号を「久保寺」と変更しました。

しかし、中興後も数多くの有力者の統治下に置かれるなど環境はめまぐるしく変化し、寺領乏しく、援助する有力者もなく寂れてしまいます。

現在の岡谷市湊の地に移されたのは、大正十三(1924)年であり、地元に菩提寺を求める声が多かったため、当時の有力な製糸家方の尽力により再中興再建されました。それより山号を「霊湊山」または「霊湊多聞山」としています。

この地は、武田信玄公統治の時代はノロシ台だったと伝えられ、境内からの絶景は「南信八名勝」「信州一の別荘適地」と評され、外国人宣教師が別荘として居住するなど、諏訪湖を正面に諏訪盆地市街地から八ヶ岳連山まで遮るものなく見渡すことができます。

古くより毘沙門天の信仰が篤く、「除厄災節分祈祷会」が盛大に行われています。
その他「諏訪湖七福神」・「諏訪三十三ヶ所観音霊場」としても篤く信仰されています
禅会も盛んであり、月例坐好会・臘八坐禅会・夏休み子供禅道会・企業団体研修等を執り行っています。